シンタックホーム 菅野照夫
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2009年06月15日

「八ヶ岳」南面集落の佇まい

木の家ネット事務局を訪た際道路を間違い、行き過ぎたところに日本の原風景に出会い、ゆっくり見学させていただきました。

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「長沢」集落、本当に住むところとしては今でも最高のところではないかと思ったのです。
写真に写った風景、水が豊富で田んぼあり、畑も、そして山あり、緑が一杯長閑(のどか)の一語です。


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向かい側道路から見下ろし集落風景は「平屋建」の民家が多く、中には大きな2階建てと聞くところによると、残念なのは「無住」・・・・・・・大きな家に住むことの難しさも痛感、皆、里に下がり、空き家が目立ちのが本当に残念。

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茅葺の大きな古民家の桁行足計で26歩は26m×妻行13m、のとても大きな家でした。・・・・・(2対1の大きさ)とても棲むのには大変だったらしく庭先に別棟でおばあさんが住んで居たそうでしたが亡くなり今では完全に無住・・・・・・残念・・・その集落の佇まいは本当に静かなところでした。

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つくりの特長では土蔵の屋根骨組みには、この地域独特の作り方があって、「棟束」を安定させる工法でつくられているのです。土蔵の上に置かれているだけの仕掛けですから、工人苦心して考えだされたのだと思う。母屋受け材(赤松の根曲がり)を対にし束を転ばさないように収めていたのです。

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2008年07月30日

消える「そば丸」

古民家を見学途中おいしいそば屋があるというのでお昼によりました。
場所、山梨県甲州市塩山三日市場2512 笛吹川温泉敷地内
純手打ち蕎麦 『そば丸』です。しかし秋には閉店せざる得ない事情と聞きました。



予約して早めについたのですが、店の外に予約客が一杯待っていました。
どれくらい待つか、今食べているお客が食べ終わらないうちは入れないのです。
待つは待つは、40数分は言うに超えて待ました。



待ち時間をジーとしているのは勿体ないので「そばつくり」をガラス越しに見学、超薄いそばを何度も引き伸ばしてはまた引き伸ばしの繰り返し、本当に薄く延ばしていました。

建物は神奈川県から移築民家だとも聴きました。店の中は大部分店にするため改装している見えたのです。材の割れの酷さから米松材が多く使われたようです。



ようやく炎天下から中へ、若い店員さんが前のお客さんが食べ終えたのも片つける暇もないくらい、お客さんが待っていたのです。とにかく皆暑いので直ぐビールに手をつけて喉を潤している内にもう出来てきました。やはり細いです。あれ位伸ばしのがすごいと思ったがやはり職人さんです。

辛味大根の薬味での味はなんとも言いない美味しいざる蕎麦でした。





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2008年04月29日

岩手県指定重要文化財「村上家」

http://www.bunka.pref.iwate.jp/pls/cult/kwd_detail?keyno=F000000440

どれ位古いのか想像できない。見ると確かに古いとしか言いようが無い。
我が家から一ノ関に向かい1時間かからない所に現存する。18世紀末の民家をみました。




まあ良くも残って来たものだ、いや残してくれたものだが本当だろう。だから岩手県指定重要文化財の評価を受けたのだと思う。




家の角の中2階に鶏小屋が・・・・・・・・・猫などに襲われないためかそれとも早起き鳥の時を知らせるためなのかは当時作られた人に聞いてみないと判らない。




馬屋も何となく昔の面影を偲ばせるつくりだ。この形に流行がない、伝統構法とは当たり前につくられてきたものに、当てはめるものだと考える。その土地その土地の作り方なのだから「土産土法」が本当でしょう。

昨日までの村上家は陸前高田市に有りました建物(仙台に嫁ぎ、また100年は生きているでしょう。・・・・・果てしない。)

今日のは現存、一ノ関市千厩町の村上家





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2008年03月25日

盛岡通い

2月のはじめから突然が起きて盛岡通い、曇りの日、晴れの日、吹雪の早朝などいくばくかの望みをもって、通ったのが何とか望みが繋がり、まもなく気仙に帰ることになった。

往き帰りの道中、車からの眺めも色々と脳裏に焼き付き、距離も我が家から片道丁度109km盛岡が近くなる従い、紫波町辺りに来ると、南部片富士の岩手山が近くの山々の上か顔を出してくる。




100km辺りの手代森に来ると完全に田園地帯の中から眺められ、盛岡が近いと感じる。後15分ぐらいで岩手県庁の裏の施設に到着です。いつ盛岡にきても、岩手山が見えると盛岡に来たのだと思う。

何日かとまりの時は、午後3時を回ると帰りしたくです。酷い日には 遠野から気仙越えは難所の荷沢峠の雪道を走らなければならず、早朝暗いときには難儀をした。絶対に急ハンドル 急ブレーキは駄目、掛けたら何処に行くか判らない。それは雪道の鉄則です。




いつも同じルートを走るので、紺屋町の番屋の側を通り信号で止まった一瞬パチリと一枚撮りました。盛岡市指定保存建造物「紺屋町番屋」です。

詳しくは地元盛岡タイムスの記事。

● 観光スポットとしても注目される盛岡市指定保存建造物「紺屋町番屋」(市消防団第五分団屯所)=同市紺屋町4の33=。同市は、来年度にも近隣に(仮称)紺屋町地区コミュニティー消防センターを新築し、屯所としての機能を移転する。新施設が別の場所に整備されることになり、大正期のハイカラな番屋が、このまま保存される可能性は高まった。しかし、残した後の管理や活用の方法はまだ不透明だ。番屋は民間所有。建築当時から代替わりを重ねた所有権者は50人以上になると見られ、観光資源として活用するために市に寄贈を受けるにしても、その手続きは簡単ではない。

以下URLで
 http://www.morioka-times.com/news/0405/23/04052301.htm





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2007年12月21日

伊勢河崎のまちなみ―20・・・完

20回まで続けてきましたが今回で、「伊勢河崎のまちなみ」も終わりにしたい。
通りだけでも見学する価値があり、一軒一軒の内部の構造(骨組み)まで見学できたらもっと良かった思うが、それはこちらの我がままというモンで、「伊勢大工」の心意気が、各家の外観から感じられた旅だった。

通りから外れて、現在の大きな通りの角に旅籠が見えてきました。
HPは中止中で詳細はわかりません。
次のブログで「伊勢志摩・松阪のほっとメニュー」照会されていました。

http://www.qn-net.jp/wordpress2/?p=1957

―写真― 外観は見る限りドッシリとしています。




―写真― 歩いてきたとおりです。




―写真― 玄関は「唐破風」如何にも時代を感じさせます。これかもそのままずーと変わることが無い玄関です。




―写真― 個性ある看板文字も凄い。




―写真― 狭い通り側から見上げた外観、如何にも「旅籠」の面影を残しています。


次回は「おかげ横丁」で見たものをブログします。




posted by kanno at 05:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 古民家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月12日

伊勢河崎のまちなみ―20

勢田川沿いの石垣に突起ような物が見えた。隣にもある。
船と陸を繋ぐ何か役割か。
石で出来ているようです。何だろう???





隣のも間隔が狭いがやはり同じ形態である。
コンクリートで出来ているのを見ると、余古いものではないのかなあ。??
前の形態とは使用方法が違うようだ。





修復した。土蔵をみて納得。
船との関係、窓から見る視界とこのように出ていることで、視界が広く見える。
恐らく船とのやり取りもこの出っ張り部分が別の役割もかねていたのだと思う。





若しかして格子などは無かったのではないかと想像する。
船が完全に、石垣の傍までつけられないから此処から桟橋を掛けて、
蔵に出入りしたのではないかと思う。
資料館を見れなかったのが、残念である。






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2007年12月10日

伊勢河崎のまちなみ―19

川沿いの河の駅周辺には「河崎の蔵」の案内板、「河崎まちあるき」案内図で掲げてあった。
「河崎まちあるき」案内図を見てやはり此処からが始まりだったのだ。
「伊勢河崎のまちなみ通り」の基点は海から川そして陸の文化になったのだ。

―写真― 「河崎まちあるき」案内図




「河崎の蔵」の案内板。
案内の行は。

河崎は勢田川の水運を利用して繁
栄した歴史ある問屋街で、 今も往
時の面影をとどめる蔵がたくさん残
っています。
 河崎の蔵は、堅固な石積みを基礎
とした切妻の土蔵造りで、壁は厚く
漆喰で仕上げられ、防火・耐震・断
熱・保温にすぐれた構造になってい
ます。さらに外側は伊勢地の独特の
黒塗りの刻囲で保護されています。
・・・・・・・・
まだつづきます。

―写真― 河崎の謂れ





「壱の蔵」の川沿いの石垣の組み方は近世に積み上げられたのでしょう。
今風住宅の石垣には、当時、船が着き作業し易く水面すれすれに築いた後が残ってます。
3軒を比較しても、古い部分の石垣ではないかと思います。

―写真― 3軒の石垣から見た工人の後。




やはり4軒目の石垣も、水面すれすれに築いた後が見えます。
恐らく満潮時が境ではないかと思います。
3軒目は近世に築造したのでしょう。
ただ川沿いの道に隔たれて水の高さ、潮目の変化と見れるのか、
また勢田川の水質はかなり汚れており、浄化の為の仕事はどうなっているのか、
水の流れる勢いがないのが残念だ。

―写真― 新旧がわかる石垣





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2007年12月08日

伊勢河崎のまちなみ―18

伊勢河崎のまちなみ通りも、終点が近いようです。
商人館と向かい合う「商人蔵」を外からのみ見ました。(休館日で見学できず・・・残念・・・)
そして良く見ると、「壱の蔵」ということで、中に何が入っているんだろう。
見学できないということなると、余計に見たくなるのも人の心だ。

―写真― 「商人蔵」の「壱の蔵」




通りの最後が川の駅「河崎」という看板が掲げてある。
通りの始まりでもあるのかも知れない、昔は船で参宮に来た方々商いに来た方、
この駅で下船してお参りしたのだろうと思うのです。
通りの保存を考える方々が、ここから保存の手を付けたのかも知れない。

―写真― 川の駅「河崎」




通りが終わり今度は「勢田川」沿いに出て、ははんなるほど思った。
この勢田川があってこそ「伊勢河崎のまちなみ通りなのだ。
駅のつくりは、洋小屋つくりで近世になっての建方なのがわかります。
なぜか不思議なところに来た感じです。
江戸時代の風情から※国の西部の町に成ったような感です。

―写真― 川側の洋小屋つくりの駅




川沿いの土手は、この頃河川整備で新設されたのであろうと思うのです。
船が着くのに土手があって船から直ぐ荷揚げ荷下ろしが出来ません。
先ほどの「壱の蔵」の川側に回ってそれがわかりました。
船か荷上げした石の桟橋があるではないの。

―写真― 荷上げ桟橋の面影が残る




近年整備された「石垣」の積み方の良いことに感心をした。
船からではなく、土手を船と見立てれば納得です。
「壱の蔵」の川側の妻手部分です。
収納するのだから、「土蔵」つくりでしょう。・・・・・

―写真― 「壱の蔵」の川面





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2007年12月05日

草は枯れ、木は生きる

明治時代初頭に建てられた。古民家の姿の見納め、最後の写真です。
建坪80数坪が長い間雨風を凌ぎ、この屋の中で生まれ、育った人たちにとっては思い出の姿です。




30数年前、急激な時代の波に押され、茅葺屋根でなく鉄板屋根で覆われた姿が剥がされ、下地が出てきました。
その下が作られた当時の素屋根です。




萱のみの屋根が出ました。つくられた当時原形です。
そして、萱のみが今回取り払われます。まだまだ萱は生きていました。・・・・・勿体無い(現代は流行らない言葉です。「勿体無い」「ああ―勿体無い」)




萱が取り払われ、下地の箒竹(いや細い松の小丸太でした)
100数十年ぶりの空です。
骨組みはビックともしていません。しかし「現法」では強度を数値で出さないと、認めません。
可笑しな世の中になったものです。
偽物つくりと同一にしか建物を見れない国家なんて可笑しいじゃないでしか。
戦後政策で、最低の基準さえ守ったらそれが正しいなんて、同考えても可笑しいよなあ。
ものを真面目につくる方たちは信用しないなんで、法律ドウリにつくれば良いんだって、後の責任は、法律は関係ないんだって、住まい手の責任で、国は関係ないなんだって。・・・・・・・・・

又、この家は、高気密・高断熱でまた百年住むんだって、国は200年住宅を考えているんだって、今の技術では、明治の建物より持たんよ。今の法律では「夢物語」だよ。
明治からの時代より歴史を見たらそんなの出来るわけがないよ。頭の優秀あほな研究者がどんなに頭を使っても、手抜きを飼いならされた者達には「浦島太郎」の夢より狂っているよ。

今の法は、毎年はいる「雑草」で「木」のようになれないのだ。

権力だけを振りかざし、イカサマ師みたいなもんだ。だから「ねずみ講」が儲かる。ウハウハだもんね。
それが「偽装国家」だ。「のう福田・一郎殿」
そして国民は「官僚」の餌食だ・・・・・・・・・・「ソレガカラテッポウ」、弾は懐の中、監獄の中で笑えが停まらん。ハハハハハア。






posted by kanno at 06:39| Comment(2) | TrackBack(0) | 古民家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月01日

伊勢河崎のまちなみ―17

まちなみ通りも後数軒になり、資料館目当てに歩いた。
1週間にいっぺんの休館日にあたり、通りの暮らしを知る資料は見学できず、中には入れません。
案内所のガイドさんにTELしていただいたが、電話が通じ無かったので、無理だとわかっても何とかなるだろうが、来て見てやっぱり駄目でした。とにかく表だけでもと、写真におさめ何時の時かまた見学に来ようと思う。

外から資料館を見たら堂々たるつくりです。
全体のバランスが良く出来ています。大きさに対する「木割り」などにも、変に歪んだ形も無く妻入り破風板なども、大きからず小さからず、下見板1枚1枚の巾なども均衡の取れた木割りです。
大屋根妻は通し巳のコ瓦、巴も堂々たる大きさバランスだ。

―写真― 商人館、堂々たる構え。




堂々たる筆「伊勢河崎商人館」の看板下の縦羽目板は「ケヤキ」かなあ。・・・・・・・・
有形登録文化財の商標、その下の街灯の「蔵マーク」は憎いデザインです。
入口の額縁なども大きな額縁です。

―写真― 休館の札が・・・・・・・残念




通りの手前右側には「連蔵」が建ち、下屋桁が自然に曲がったものをそのまま使ったのが凄いです。
とにかく真っ直ぐではないのです。波のように曲がった材タクミに収めています。作り手として当たり前の仕事ですが、実に軽やかな形だ。
「連蔵」も定休日で中には入れずアウト。まあ外だけでもとアキラメ、下屋の仕掛けだけを覗えて。・・・・・・・・

―写真― 2連土蔵の眺めが・・・・・・・うーんとうなる。




「弐の蔵」の戸口には色々な現代看板が掲げてあり、何かを連想させるのか中がそうなっているのかはわかりません。手前の桁が、木つくりの時には真っ直ぐに木通りをしたのだろうが、つくり終わったら又丸太の時と同じように曲がったのだと思う。

―写真― 連蔵ー「弐の蔵」戸口




「欅」――料理について

ケヤキの木ほど、作り手の思うように行かないのが習性で、硬くて融通の利かないのがケヤキの特長であり、「アデ」木ともいうがどこかの人とも共通点がありそうです。
曲がったのを直そうと手を入れてもやっぱり駄目なもので、

先人はそのような「ケヤキ」は畑を掘って水を入れ、土を「ドロドロ」にしてから寝かせ、癖を取ったのを修行中に聞いたことがあります。

やはりどんなに人間が化学的に「乾燥」や「習性」(くせ)を直しても自然素材は思うようにゆかなのです。育てた親「土・水」を抜きにしてどんな研究しても愚かではないの、
水・土に任せると素直になるということを、研究者 科学者は知らないのです。

一度生まれ里の親に返しと素直になって帰って来る物なのだと、先輩に教えてもらったが事実だと思うのです。
(ひとの嫁はんが喧嘩して里帰りするのと似てますなあ、やはり自然界は普遍だ)

(自然素材に人間が「法」をつくり起つ向かう愚かなことを・・・・・・・我が国の国家管理をする方々が考えているなんて、やはり戦後の変な民主主義の功罪だ。・・・・・・・アア愚かなこと。のうケヤキ殿)






posted by kanno at 05:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 古民家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
 
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